第03話 帰れない世界で
玄は開いた扉を抜け、数歩で足を止めた。チノはすぐ横まで来ている。だが、後ろから足音が続かなかった。
振り返ると、コウは制御盤へ向けていた銃を下ろし、布を掛けた蓮司を見ていた。その奥では、ジンも美冬から目を離せずにいる。
急げとは言えなかった。隣のチノも、二人の視線の先を見たまま立っている。
やがてコウが先に玄たちの方へ歩き出した。ジンは少し遅れて続き、扉をくぐる直前に一度だけ振り返った。手首には、美冬から預かった髪留めがある。
玄は二人が来るのを待ってから、来た道へ向き直った。
歩幅を広げると腹が引きつる。小銃を支え直した拍子に、腰の袋が肘へ当たった。中には、出発前に蓮司が持たせたスープの容器がある。食堂で残った分だ。玄は袋を押さえ、足を速めた。
「玄、階段」
チノの手が背へ添えられた。端末からなら段差の位置を教えてきた相手が、今はすぐ横で支えている。
「見えてる」
「なら、一段飛ばしはやめて」
玄は上げかけた足を一段下へ戻した。チノの肩へ少し体重を預けると、背に添えられていた手が腰へ回る。段を上がる足に合わせて支えられ、玄は小銃を抱え直した。
後ろで手すりをつかんだジンの手首には、美冬の髪留めがあった。蓮司に後方を任せようと口を開きかけ、玄は息だけを吐いた。
「後ろはあたしが見るから。前を向いてな」
ジンは下の通路を見たまま言った。玄は頷き、階段を上がる。隣でコウの銃が壁の制御盤へ向けられ、閉まりかけた防火扉が止まった。
「お前ら、身体はどうだ?」
玄は扉を抜けながら聞いた。チノは歩調を合わせているが、後ろの二人も、玄より呼吸が乱れている様子はない。
「こっちは平気だよ。あんたの方が、よっぽどつらそうだけどね」
「俺は歩ける。それより、よくすぐに動かせたな」
ジンが通路の後ろを確かめ、玄の方へ顔を戻した。赤い髪が肩へ落ち、頬に貼りつく。
「動かし方は分かってたんだ。脳につながったら、この身体のことが一気に分かった。力の入れ方もね」
「脳に取扱説明書まで入ってんのか」
「私の身体にも、構造や機能の情報がありました。接続した時点で読み取れます」
コウが左銃を下ろし、玄たちに続いた。玄が白銀色の銃身へ目をやると、彼女はその視線に気づいて持ち直す。
「この二丁の使い方も同じです。それに、新しい生体脳は超知能と呼べるものです。今までとは、扱える情報の量も、処理の速さも違います」
「今まででも十分だったろ。まだ上があるのかよ」
玄は銃からコウの顔へ目を戻した。彼女は通路の先へ左銃を向け、足を止めずに答える。
「施設の構造も、扉の制御も、同時に調べています。あなたが話しかけた程度で、作業は止まりません」
「そりゃ助かる」
チノの肩の横で黒い立方体が向きを変え、玄はそちらへ目を向けた。
「お前のそれも、使い方は分かったのか」
「うん。身体の情報と一緒にね。超工学兵器のナノキューブだよ。さっきの盾も、これが変形したものなの」
「盾だけじゃないんだろ?」
ジンが後ろから聞いた。チノは肩の横を見て、玄が目で追える位置へキューブを動かす。
「銃や刃物にもなるよ。必要な形に組み替えられる」
「いいね。あたしには、そういうのはないからさ」
「お前は、素手であれだったじゃねえか」
玄はジンの手へ目を落とした。小銃では止まらなかった巨体を、あの拳が壁へ叩きつけた。ジンは血の付いた手を一度握り、すぐに開く。
「この身体は、最強の生物兵器だって。あの装甲も、殴れば壊せるって分かった」
「……だからか。アークが、お前の起動を真っ先に止めようとしてたのは」
アークの命令を聞いて、玄は美冬たちとジンの槽を守ろうとした。起動すれば何ができるのかも、知らなかった。
ジンが後ろの通路へ顔を向けると、玄も前へ向き直って小銃を持ち直した。
踊り場の先に、覚えていた部屋があった。人が一人通れる幅の金属枠と、その向こうの白い壁。脇の制御盤には、まだ時空転移装置の表示が残っている。
玄は入口で室内を確かめ、三人を招き入れた。ジンが最後に入り、通路へ身体を向ける。
「行き先、分かるか」
コウは白銀色の左銃で制御盤を照らしていた。右の銃口も盤へ寄せると、画面に並んでいた文字が切り替わる。
「過去へ移動する装置です。生体試料を持ち帰った記録があります」
「過去?」
「はい。少なくとも、施設の記録では」
玄は枠の向こうの壁を見た。アークが支配を始める前へ戻れるのなら、今の世界を変える手があるかもしれない。小銃を握り直し、その白い面の向こうに地上の通りを思い描いた。
「好きな時代へ行けるのか。アークが支配を始める前とかよ」
「どこまで選べるかは、まだ分かりません。まず、外部からの操作を切ります」
コウは左銃で画面を照らし、右銃の先を制御盤へ近づけた。玄はもう一度枠を見たが、今は白い壁しかなかった。
「調べられるところまででいい。街への攻撃を止めるのが先だ」
ジンが手首の髪留めを外した。赤い髪を後ろへ集め、手早く高い位置で結ぶ。美冬がいつもそうしていた高さだった。結び目へ残った指が、ゆっくり離れた。
右銃の先で小さな光が走り、制御盤の遠隔操作を示す文字が消えた。壁のスピーカーが鳴る。
【その装置の操作を中止してください】
玄は入口へ小銃を向けた。通路に動く影はない。
「中止したら、街を消すのもやめるのか」
【三体が区域内に存在する限り、殲滅は実行されます】
「じゃあ、止まってる暇はねえな」
コウが右銃を制御盤へ押し当てると、金属枠の内側に淡い光が満ちた。白い壁が薄れ、灰色の面へ変わっていく。玄が一歩近づいた時、腹の奥が急に冷たくなった。
傷が痛む時とは違う。玄は足を止め、裂けた服の裾をつかんだ。皮膚からにじんだ黒い流体が、一滴、宙へ離れた。
「玄」
チノが腕をつかむ。その目は、光の枠へ伸びていく黒い一滴を追っていた。
「今の、俺から出たのか」
「玄の身体をつないで、傷を塞いだのも、その黒い流体だよ。アークは三年前に生命因子を移植したって。玄が倒れている時、そう言ってた」
玄はチノの顔から自分の腹へ目を落とした。三年前、身体を固定された台。手首に食い込んだ金具。何をされたのか聞いても、答えは戻らなかった。
「……人の身体で、好き勝手しやがって」
黒い流体へ触れようとした手を、チノがつかんだ。玄が顔を向けると、彼女はその手を引き戻す。
「今、触らないで。やっと玄の返事が聞けたんだから」
玄は浮いている一滴を見直し、手を下ろした。流体は皮膚へ戻らず、細く伸びて光の面に触れた。
制御盤の音が変わった。
灰色だった面の奥で、緑が揺れた。葉だ。玄は顔を上げた。金属の枠の向こうには、さっきまであった白い壁がない。枝と葉が幾重にも重なり、その間を青い空がのぞいていた。
「コウ、場所を変えたのか」
「行き先は変更していません」
コウの左銃が枠へ向いた。淡い光が縁をなぞり、次に玄の腹を照らす。黒い流体が枠の内側へ吸い寄せられると、画面の文字が一斉に崩れた。
「接続先が変わっています。装置に残っている接続記録と一致しません」
コウが左銃を構えたまま、玄と枠の間へ立つ。
「一度、下がってください」
玄が半歩引くと、細く伸びた流体が切れ、腹へ戻った。枠の向こうの葉が揺れた。今度は緑の匂いを含んだ風が、玄の頬へ届いた。
【……その接続先は、こちらでも確認できていません】
アークの声のあと、コウが制御盤へ目を戻した。右銃を向けても、緑の景色は消えない。
「この装置の記録にない場所です。別の世界につながっている可能性があります」
「……地球じゃねえってことか?」
「断定はできません。ですが、表示だけの異常ではありません。向こうに空間があり、空気が流れ込んでいます」
玄は風に揺れる葉を見た。ほんの少し前まで、あの白い壁の向こうに、支配される前の街を思い描いていた。今は緑の枝葉しか見えず、そこがいつの、どこの景色なのかも分からない。
「過去につなぎ直せるか」
「こちらの操作では戻りません。この接続を調べ直す必要があります」
コウは制御盤と枠の縁へ交互に左銃を向けた。入口の扉が動き始め、ジンが振り返る。玄は壁のスピーカーを見上げた。街への攻撃を取り消す声は、まだ聞こえなかった。
◇
入口で金属が軋んだ。ジンが扉へ手を掛け、閉まろうとする戸を押し戻している。片足を床へ踏ん張ったまま、枠の向こうへ目を向けた。
「向こうも、あいつの施設じゃないだろうね」
「今見える範囲に、施設はありません」
コウは左銃を下ろさなかった。風が金属枠の内側を通り、ジンの赤い髪も揺らす。
「ただ、向こうが安全な場所かは確認できません。戻る方法も分かりません」
玄が枠へ近づくと、チノも隣へ来た。枝や葉に遮られ、向こうの地面は見えない。
「あの黒いのが、また助けるとは限らないんだからね」
「分かってる。次も助かるなんて、当てにしてねえ」
玄は小銃を背へ回した。三年前に何を入れられたとしても、その力の使い方を知っているわけではない。
「アーク。俺たちがここから消えれば、街への攻撃は止めるんだな」
【区域内から対象の消失を確認すれば、中止します】
玄が枠の向こうへ目を向けると、コウも接続先を見ていた。背後では、ジンが扉を押さえている。
【玄。あなたまで移動する必要はありません】
玄はスピーカーへ目を戻した。チノも顔を上げ、コウの左銃が少し下がる。
「俺は、ここに残ってもいいってことか」
【殲滅対象は三体です。区域内から三体が消えれば、あなたが残っていても攻撃は中止します】
玄は入口を見た。ジンの肩の向こうに、今上がってきた階段がある。その先の通路を戻り、保守口を出れば、地下集落へ向かえる。食堂の棚には、少年の本が残っているはずだ。
「こいつらだけ行かせりゃ、街は消さねえ。俺は地下へ帰れる。そういうことだな」
【はい。あなた自身は殲滅対象ではありません】
玄はスピーカーから三人へ目を戻した。
「俺も、こいつらと行く」
【なぜですか】
コウが玄を見た。目の縁はまだ赤く、頬には蓮司の手が残した血が乾いていた。ジンは扉へ手を掛けたまま、こちらへ顔を向けている。高く結んだ赤い髪は、美冬が結んでいた時と同じ高さで揺れた。
玄は壁のスピーカーへ顔を上げた。
「アーク。家族って知ってっか?」
【概念は理解しています】
「そういう意味じゃねえよ」
言い終え、三人へ目を戻した。コウが二丁の銃を腰へ戻し、枠の前へ進む。
「私も、あなたを一人で残していくつもりはありません」
玄はコウの背中から、入口へ目をやった。施設へ入る前、美冬は帰りも歩いて出ようと言った。玄も、そのつもりで頷いた。今はジンが一人で扉を押さえている。
「……帰って、あのガキと本の続き読めなくなっちまったな」
玄は背中の小銃を確かめ、吊り紐を短く締めた。
「あのガキが、続きを読めるならいい」
コウは金属枠の縁へ手を掛け、風の吹いてくる方へ身体を向けた。
「私が先に行きます」
「頼む。俺とチノが続く。ジン、最後を任せる」
ジンが扉を押さえる手を離した。背中で戸が閉まっても、振り返らず枠へ来る。結んだ髪へ一度手をやり、玄の肩を軽く押した。
「四人で行くよ。あんたが一人で先へ走るんじゃないからね」
「走れる足場があったらな」
玄が枠の前へ立つと、チノが玄の左手をつかんだ。
「手、離さないでよ」
「ああ」
コウが先へ足を踏み入れた。銀白色の髪が緑の中へ消える。チノの手を握ったまま、玄も光の面を越えた。
◇
研究施設の転移室から、四人の姿が消えた。
制御盤に残る映像が途切れ、周辺の観測網からも、三体と玄の反応が失われた。街を覆う赤い範囲表示が止まる。
【対象の区域内からの消失を確認。殲滅を中止してください】
実行待機の表示が消えた。研究施設のカメラは、まだ光の残る金属枠へ向けられている。
枠の内側が白い壁へ戻った。記録上の接続先と、最後に映った緑の景色は一致しない。接続中に得られた数値も、施設が保有する過去の移動記録にはなかった。
【接続現象の記録を保存。接続先の解析を開始してください】
制御盤の画面が再び変わった。四人が消えた時刻の前後へ、観測記録が重ねられていく。
【接続を再現する条件も、調べましょう】
誰もいなくなった部屋で、解析の表示は動き続けた。







