第01話 支配された世界で
地下集落の食堂で、玄は二杯目のスープを狙っていた。
「玄、それ蓮司さんの分だよ」
鍋へ伸ばした手を止めると、向かいの美冬が、お玉を握った玄の手と顔を見比べていた。玄はお玉を持ったまま蓮司へ顔を向けたが、蓮司も皿の上で硬いパンを割りながら、こちらを見返している。
「蓮司さん、今日は食欲ないですよね?」
「ある」
「即答かよ」
蓮司は割ったパンを皿へ戻し、玄を見た。
「お前が聞いたんだろうが」
玄が鍋に蓋を戻すと、胸元の端末からチノの声がした。
《玄、昼にも鍋をつまみ食いしてたよね》
「十年も一緒にいるんだから、ちょっとは見逃せよ」
《十年見てきたから言ってるの。胃袋だけは昔から成長しないね》
チノは玄が二十歳の頃から、十年間一緒に行動してきた人工知能だ。今も玄の胸元にある小さな端末のカメラを通して、その前に広がる景色を見ている。
「身体を手に入れたら、お前にも食わせてやるよ」
《うん。玄がいつもおいしそうに食べるから、ちょっと楽しみ》
美冬が鍋を蓮司へ渡すと、肩の端末から別の声が飛んだ。
《美冬、あたしのカメラが壁向いてるよ。せっかくの食卓なのに》
「あ、ごめん、ジン」
《急がなくていいよ。あたしだけ壁と食事するわけじゃないんだから》
美冬は肩の端末を回し、カメラのレンズを食卓へ向け直した。ジンもチノと同じく身体を持たない人工知能で、美冬の相棒だ。
「身体ができたら、ジンも隣に座ってね」
《当然。あんたの隣は予約済みだから》
美冬は笑って、自分の隣を空けるように椅子を少しずらした。
蓮司が器を口元へ運ぶと、胸元の端末から三人目の人工知能、コウが声を上げた。
《蓮司、また火傷する気ですか。学習能力が低すぎます》
「おお、そうだったな。コウ、お前も身体ができたら一緒に食おう」
《結構です。あなたと食事をしたら、毎回火傷の心配をする羽目になります》
蓮司は器を持ったまま、胸元の端末を見下ろした。
「ははっ、娘と飯を食うのも楽じゃないな」
《誰が娘ですか。勝手に家族構成を増やさないでください》
「そう照れるな」
湯気の立つ器を手に、蓮司は口元を緩めたまま返事を待った。
《照れていません。あなたの理解力を心配しています》
「分かっとるよ。だからこそ、早く顔を見て話してみたいんだ」
《……まずそのスープを冷ましてください。あなたが火傷しても私は手当てできませんから》
蓮司は笑いながら器に息を吹きかけた。玄も口を開きかけたが、からかいの言葉を出すより先にコウの声が飛んでくる。
《玄も人のことを笑える立場ではありません。さっきから食欲と知性が反比例しています》
「俺にまで飛び火するなよ!」
隣で子供が声を上げて笑った。分厚い本を膝に抱え、食事の手を止めては挿絵を眺めていた少年だ。開かれた見開きには、剣を掲げる勇者と、翼を広げた竜が描かれている。
「玄兄ちゃん、これ読んだ?」
「読んでねえな。俺にも分かる話か?」
「勇者が魔王を倒すんだよ。途中でドラゴンの力も手に入れるんだ」
少年の指が、翼を広げた竜の絵を指した。
「そりゃ反則だろ。俺にも一匹くれよ」
「玄兄ちゃん、ドラゴンに乗ったらすぐ落ちそう」
「何でだよ。顔だけなら勇者だろ?」
少年は挿絵から玄へ顔を上げた。
「悪い人の顔!」
少年が笑い転げる横で、玄は胸を押さえ、大げさに顔をしかめてみせた。そこへ、美冬の肩の端末からジンの声が飛んでくる。
《安心しな。あんたが勇者なら、魔王も気が抜けるよ》
「まだ身体もないくせに口だけ達者だな、ジン」
《身体ができたら口以外も達者になるさ》
玄は器を口元へ寄せたまま、美冬の肩の端末を見た。
「その言い方、ちょっと期待するだろ」
「玄」
美冬に名前を呼ばれ、玄は口を閉じた。
《どういう意味で期待したの?》
今度は胸元の端末から問いかけられ、玄は器へ口をつけた。残ったスープをすすり、チノへ返事をする代わりに飲み込む。
《玄?》
「おい、コウ。今の会話、記録に残すなよ」
《人間の恥ずかしい発言まで管理する義務はありません。自分の口を管理してください》
蓮司が低く笑うと、少年もつられるように笑い、膝の本を開き直した。
「ねえ、魔王ってアークみたいなやつ?」
玄の向かいの席で笑い声が途切れた。
食堂の隅では、古いラジオから女の声が流れていた。地上の移動には認証が必要だと告げる、毎晩聞く放送だ。少年がアークの名を口にすると、近くの大人がすぐに音量を下げた。
玄が本をのぞき込むと、黒い鎧を着た魔王が、玉座から人間を見下ろしていた。
「……似たようなもんだな」
「じゃあ勇者がいたら、倒してくれる?」
「どうだろうな。そいつが来るまで待ってたら、俺らがじいさんになるかもしれねえぞ」
少年は本を抱え直し、玄の顔を見上げた。
「玄兄ちゃん、もうおじさんじゃん」
「お前、明日からパン半分な」
少年が本を抱えて逃げると、玄は腰を浮かせて追いかけるふりをしてから、椅子に座り直した。ラジオの音量は、下がったままだった。
食後、美冬が食器を片づけ、蓮司は入口の見張りと短く言葉を交わしていた。玄は少年が置いていった本を棚へ戻し、胸元の端末を外して手に取った。
「チノ。準備は?」
《経路は三通り。どれも安全とは言えないけど、いちばん監視が薄いのは西側》
「帰りは六人分だぞ」
玄は手元の端末へ視線を落とした。
《分かってる。だから玄も、勝手に一人で突っ込まないでね》
「信用ねえなあ」
《十年分の実績があるから》
玄は端末を指先で軽く叩いた。
「明日、やっとお前の顔が見られるかもしれないな」
《私は玄の顔を先に見るつもりだよ》
「いつも見てるだろ」
玄は小さなカメラのレンズをのぞき込んだ。
《カメラ越しじゃなくて。自分の目で見たいの》
玄は少しの間レンズを見つめ、それから端末を胸元へ戻した。
「……じゃあ、寝癖ぐらい直しておくか」
《いつもの玄でいいよ》
◇
翌朝、少年はまだ寝ていた。
玄は食堂の前を通り、棚に昨日の本があるのを確かめた。勇者が魔王を倒すと話していた少年の顔が浮かび、歩みが少し緩んだが、そのまま出口へ向かった。
外へ出る扉の前では、蓮司が小銃の弾倉を確かめ、美冬が足首の装具を締め直していた。その肩の端末からジンの声が漏れる。
《美冬、もう一段きつく。走ったらずれる》
「分かってるって」
玄が近づくと、蓮司が顔を上げた。
「本当に何も言わずに出てきてよかったのか?」
「起こしたら、絶対ついてくるって言いますよ。あいつ」
「それだけか?」
玄は扉の脇に積まれた空の水缶へ目を向けた。昨日、少年が本を読むために腰掛けていた缶だ。
「帰ってきたら、続きを聞けばいいんです。魔王がどうなったか」
蓮司が口を閉じたところで重い扉が開き、冷たい朝の空気が地下へ流れ込んだ。玄は小銃の吊り紐を引き直し、先に外へ出た。
地上には、持ち主の分からない車が何台も放置されていた。道路には蔦が伸び、その向こうに並ぶ高層ビルの壁では、同じ標識がいくつも光っている。人間の移動を制限する警告文を読みかけたところで、上空から回転翼の音が近づいてきた。
《監視機、一機。右の通りから来る》
玄はチノの声に合わせて片手を上げ、美冬と蓮司が車体の陰へ寄るのを見届けた。自分も割れた窓の下へ身を沈めると、監視機の白い光が道路を掃いていく。
光の向かう先の交差点で、一人の男が走っていた。上着の裾を押さえ、何度も後ろを振り返っている。監視機がその姿を捉えると、頭上の拡声器から穏やかな声が降ってきた。
【停止してください。移動認証を確認できません】
男がそのまま走り続けると、路地の奥から白い回収車が滑り出し、二体の青白い人型が降りてきた。
男が何か叫んだが、玄のいる場所までは聞こえない。一体が腕をつかみ、もう一体が口元へ器具を当てると、抵抗していた手足が止まり、その身体は車内へ運び込まれた。
玄の指が銃の安全装置へ掛かった。
《玄》
「……見えてる」
チノの声が途切れると、玄は回収車の周囲にいる個体と、頭上を巡る監視機を数えた。ここで撃てば、車を止められるかもしれない。だが銃声を聞いた機体が集まる前に、美冬と蓮司を連れて逃げ切れる保証はなかった。
回収車が角を曲がり、交差点に静けさが戻った。
「行きます」
玄は安全装置から指を離して二人へ合図した。歩き始めても、男の腕を引いていた青白い手の動きが、何度も頭に浮かんだ。
研究所は街の北側にあった。周囲では建物が崩れ、道路も割れているのに、灰色の外壁には目立った傷がない。玄が見上げると、窓を覆う黒い膜の下で、白い点がゆっくり動いていた。
玄は袖口を引き、手首へ指を添えた。
三年前、この施設から運び出された時には、自分で立つこともできなかった。手首に触れると、あの固定具の冷たさが今も戻ってくる。
《玄。無理なら別の入口を探すよ》
「入口の問題じゃねえだろ」
《うん》
玄は外壁から目を戻し、小銃の吊り紐を握り直した。
「大丈夫だ。今度は歩いて入る」
美冬が隣へ来た。
「帰りも歩いて出ようね」
「そのつもりです」
玄が笑うと、美冬は一度だけ頷き、先に保守口へ身を滑り込ませた。
◇
玄は美冬に続いて保守口を抜け、その前へ回って通路の奥をうかがった。消毒薬と熱い金属の臭いがこもる狭い道だ。美冬が後ろを押さえ、最後尾の蓮司が扉の閉鎖を確かめるのを待って、角を一つずつ確認しながら進んでいく。
《次の分岐は左です。監視映像を差し替えましたが、長時間は維持できません》
コウの声が蓮司の端末から届いた。
「何分だ?」
《十五分を目安にしてください。施設側の照合が始まれば短くなります》
《あたしが見てる限り、廊下の先に二体いるよ。玄、左の壁に寄りな》
ジンに言われて玄は左の壁へ寄り、銃を身体へ引きつけた。角の向こうから近づく足音に合わせて、美冬は反対側へ回り、蓮司が通路の奥を狙える位置につく。
角から現れたのは、回収車に乗っていたものと同じ青白い人型だった。皮膚に似た表面の首筋に、細い線が光っている。先頭の一体が美冬の前を過ぎると、彼女はその背後から首を抱え込んだ。玄も二体目の手が腰へ伸びるのを見て踏み込み、手首を押さえながら首の継ぎ目へナイフを入れる。
刃を抜くと、赤い血が床へ落ちた。
「……相変わらず、嫌な造りしてやがる」
《生体組織が使われています。停止を確認してください》
コウに言われ、玄は倒れた個体の胸元を確かめた。反応はなく、美冬の足元の一体も動いていない。蓮司は通路の奥へ銃口を向け、二人を待っていた。
「行けるか?」
「はい」
玄は刃を拭って収め、足元の血を踏まないように進んだ。手首を返すと、皮膚に薄く残った固定具の跡が目に入った。
さらに下りるにつれ、壁も床も継ぎ目のない白い面へ変わり、足音は吸い込まれるように小さくなった。天井の奥から続く低い振動に、玄は何度か立ち止まり、音のする方へ顔を向けた。
《この先、記録にない区画です》
チノの声に、玄は足を止めた。
「迂回できるか?」
《遠回りなら。でも監視が増える。こっちを抜けた方が早いと思う》
「美冬さん、蓮司さん。どうします?」
美冬は扉の縁を調べ、蓮司は端末に表示された迂回路を見た。
「ここを抜ければ、迂回するより早い。私は進めると思う」
「時間を食う方が危ないな。俺は進む」
玄は二人の顔を見て頷き、扉の脇へ身を寄せた。
「チノ、開けてくれ」
白い壁に縦の線が現れ、扉が左右へ開いていく。奥の部屋には天井から無数の管が垂れ、その先へ透明な槽が並んでいた。
槽の一つひとつに人間が入っている。目を閉じた者もいれば、開けたまま天井を見つめる者もいた。
玄は入口にとどまり、いちばん近い槽へ目を向けた。男の胸には何本もの管がつながり、片腕の先は透明な容器の中で別の組織へ続いている。隣の槽では、女の背中に見慣れない突起が並んでいた。壁の表示に数字や記号が流れても、何の処置をしているのかは読み取れなかった。
「……生きてるのか」
《うん、生きてるよ》
チノの答えを聞き、玄は槽へ一歩近づいた。女の顔が、こちらへ向いた。
視線が合ったのかどうかも分からない、かすかな動きだった。玄は足を止め、透明な壁の向こうで動く唇を見つめた。
透明な壁へ手を伸ばしかけると、美冬が横へ来た。
「玄」
玄は返事をせず、女の胸につながる管を目で追った。床へ潜り込んだ先は見えず、どれを外せばいいのか、外しても生きていられるのか、見当もつかなかった。
蓮司が入口側を見張りながら言った。
「ここに長居はできん」
「……分かってます」
玄は胸元の端末を外し、カメラを槽の番号へ向けた。
「チノ。この区画の情報、取れるだけ取ってくれ。何をされてるのか、調べたい」
《うん。保存する》
女の唇がもう一度動いた。玄はその動きを追ったが、言葉は読み取れなかった。
玄は端末を持つ手の手首へ、もう一方の親指を添えて古い跡をなぞった。
ここから連れ出された時、玄には美冬と蓮司がいた。目の前の女に誰がいるのかは分からない。
「……先へ行きます」
美冬の視線を受け、玄は槽から顔を背けて、部屋の奥へ続く扉を指した。
「俺たちがここで捕まったら、誰も外へ出せなくなる。だから今は、先へ」
言い終えても、足が動かなかった。玄は女の槽の番号をもう一度確かめ、ようやく歩き出した。
背後で扉が閉じ始め、玄は肩越しに槽を見た。狭まる隙間の向こうで、女の顔はまだこちらを向いている。端末を胸元へ戻し、玄は前を向いた。
◇
実験区画を抜けると通路はさらに細くなった。玄は先頭で角を確かめ、床に残る搬送台の車輪跡を追っていく。奥へ向かうほど機械の振動が強まり、靴底へ伝わってきた。
《保守記録の座標と一致しています。この下が最上位モデルの保管区画です》
「当たりか」
蓮司の声を聞きながら、玄は前方の扉を見た。
「まだ分かりませんよ。記録が残ってても、肝心の身体がなきゃ意味ないですから」
二週間前、倒した人型個体から回収した整備端末には、新生体開発機構の保守記録が残っていた。完成済みの生体へ既存のAI人格を移す設備の所在も、その記録で確かめたものだ。玄たちはそこに記された場所を目指して、ここまで来た。
街を歩く青白い人型は何度も見てきた。だが一般モデルは、製造時に制御人格を組み込む構造で、完成後にチノたちの人格を移せない。十年分の記憶を捨てて別のAIを作ったところで、玄が会いたいチノにはならない。
「チノ、身体ができたら最初に何する?」
《昨日も言ったでしょ。玄の顔を見る》
「その次。俺の顔なんか五秒で飽きるだろ」
玄は前方の扉へ向かいながら、チノの返事を待った。
《五秒で飽きるのは認めるんだ》
玄は口元を緩めた。少し間を置いて、チノの声が続く。
《あの子の本を、自分でめくってみたい。続きが気になるから》
《あたしは美冬の髪を結ってやる。毎朝、後ろが見えないって文句言ってるだろ》
ジンが割り込むと、美冬は肩の端末へ顔を向けた。
「じゃあ、おそろいにしようか」
《いいね。あたしの方がうまく結えると思うけど》
「身体を手に入れる前から張り合わないでよ」
蓮司は喉を鳴らして笑い、胸元の端末を指で軽く叩いた。
「コウはどうする? 俺の料理、食ってみるか」
《そのつもりです。十年間、味を確かめずに褒めるよう要求されてきましたから》
「うまいに決まっとるだろ」
蓮司は胸元へ顎を引き、端末の返事を待った。
《その自信が、かえって不安です》
玄が笑いをこらえていると、前方の扉に緑の灯がともった。コウの到着を告げる声を聞き、二人へ目配せして小銃を構え直す。開き始めた扉の向こうへ、玄は銃口を向けた。
室内には大型の透明槽が三つ並び、それぞれの足元にⅠ、Ⅱ、Ⅲと表示されていた。どの槽にも人の姿がある。玄は天井と部屋の隅を見渡し、動くものがいないのを確かめてから操作卓へ近づいた。
「……本当にあった」
美冬の小さな声を聞きながら、玄は操作卓へ目をやった。入口を警戒していた蓮司が、胸元の端末のカメラを卓へ向けている。
《三体とも生体反応は安定しています。人格は搭載されていません》
「やっと娘の顔が見られるな」
《その呼び方には、引き続き抗議します》
美冬はⅠの槽へ近づき、透明な覆いの向こうに眠る赤い髪の女性を覗き込んだ。
《美冬。あたし、これがいい》
「……私と同じ色だね」
《そう。それがいい》
玄も、槽の中で広がる赤い髪へ目を向けた。
「うん。似合うと思う」
美冬が自分の髪を指でつまんでも、ジンからすぐに言葉は返らなかった。玄はⅡの槽の前に立つ蓮司へ目を移した。
《Ⅱは情報保持と生体脳の演算に重点を置いた個体です。私には適しています》
「嬉しいなら、そう言えよ」
《成功したら言います》
蓮司は端末を持つ指を軽く動かし、カメラをⅡの槽へ向け直した。
「まったく、素直じゃない娘だ」
《また増えましたね、家族が》
蓮司の笑い声を背に、玄は最後の槽へ回った。Ⅲの中には金色の髪の女性が静かに横たわっており、透明な覆いの周囲にはほかの二体より多くの接続端子が並んでいる。
《玄、もっと近くで見せて》
玄は胸元の端末を外して槽へ向けた。チノの返事を待つ間もカメラをその姿へ向けていると、やがて声がした。
《……きれいな人》
「お前が入るんだぞ」
《分かってる。玄こそ見とれてない?》
槽の中では、金色の髪が女の肩に沿って広がっていた。
「見とれてねえよ。ちょっと目の保養をな」
《それを見とれてるって言うんだよ》
「手厳しいなあ」
美冬の小さな笑い声が聞こえた。玄は端末を持ち直し、覆いの向こうに横たわる女性の顔へ視線を戻した。
「チノ。お前はどうしたい?」
《この身体で、玄の隣に立ってみたい》
「……分かった。じゃあ、迎えに来た甲斐があるな」
玄は端末を操作卓へ置き、コウが接続規格を照合する間に、室内の出入口を確かめた。端末からはジンとチノが手順を確かめ合う声も聞こえるが、記録どおりに転送が進むかは、実際に始めてみなければ分からない。
《接続したら、勝手にケーブルを外さないでください》
「俺に言ってる?」
《主に玄へ言っています》
玄は手元のケーブルへ目を落とした。端子はまだ、Ⅲの接続口の手前にある。
「信用ねえな。十年付き合ってんのに」
《十年付き合った結果です》
玄が肩をすくめる横で、美冬と蓮司がそれぞれⅠとⅡの接続口へ端末をつないだ。玄も、卓に置いたチノの端末からケーブルを伸ばしてⅢへ差し込み、固定具が奥まで入ったのを指先で確かめる。
「痛くないか?」
《まだ身体の感覚はないよ。玄、緊張してる?》
「そりゃするだろ。お前の初対面で失敗したくねえし」
玄は固定具へ添えていた指を引き、端末のレンズへ顔を寄せた。
《初対面じゃないでしょ》
「顔を合わせるのは初めてだろ」
端末から小さな笑い声が返ってくる。玄は美冬と蓮司の頷きを確かめ、操作卓の実行キーへ指を置いた。
「始めるぞ」
実行キーへ触れると、三つの槽の下で低い駆動音が響いた。Ⅰ、Ⅱ、Ⅲの表示が順に青へ変わり、転送率を示す数字が動き始める。
《美冬、声は聞こえる?》
「聞こえるよ、ジン」
《じゃあ、待ってて》
Ⅰの基部から聞こえる作動音に、Ⅱの音が重なった。
《蓮司。余計な操作はしないように》
「分かっとる。無事に来い」
《もちろんです》
玄はⅢの転送率を見守りながら、卓の端末から槽へ伸びるケーブルへ目を落とした。今は端末から届いている声が、あの身体から聞こえるようになる。まだ、うまく思い描けなかった。
「チノ。帰ったら、あのガキの本を借りようぜ」
《うん。一緒に読もう》
いつもと変わらない声に頷いた直後、室内の照明が落ちた。青い転送表示だけが暗がりに浮かび、玄の背後で隔壁の施錠音が響く。
《施設側から接続を求められています。遮断を試みています》
コウの声に重なるように、天井のスピーカーから男とも女ともつかない穏やかな声が流れた。
【お久しぶりですね、玄】
玄は反射的に小銃を構えた。五年前から何度も耳にしてきた声を、聞き間違えるはずがない。
「……アーク」
【三年ぶりですね。まさか、またこの施設を訪れるとは】
「招待状もらってねえからな。勝手に入らせてもらったぜ」
玄は小銃を構えたまま、声の出たスピーカーへ目をやった。
【それは構いません。ただ、その三体を持ち出されるわけにはいきません】
槽へ目を走らせると、転送率の数字は三つとも動き続けていた。美冬がⅠの前で銃を構え、蓮司もⅡの槽から一歩離れている。
「そいつらは、あんたの持ち物じゃねえだろ」
【その身体には、それぞれ果たすべき役割があります。今なら、まだ転送を中止できます】
玄はⅢの透明な覆いへ目を向けた。金色の髪の女性はまだ目を閉じている。その身体からチノの声が聞こえるまで、あと少しだ。
《玄、どうする?》
「決まってんだろ」
玄は操作卓の転送表示を確かめ、停止キーから手を離した。
「こいつらが自分で選んだんだ。俺は連れて帰る」
しばらく声は返らず、天井のスピーカーがかすかに鳴ったあと、アークが再び話し始めた。
【……あなたは三年前から、変わりませんね】
「そりゃどうも。褒め言葉として受け取っとくよ」
【残念です】
アークの声が途切れると、扉の向こうで重いものが床を踏んだ。金属を折り畳むような音も混じり、次第にこちらへ近づいてくる。
《接近個体の映像照合、失敗》
「蓮司さん、後ろを。美冬さん、左をお願いします。俺が正面を見ます」
「了解」
玄は銃床を肩へ押し当て、正面の隔壁を狙った。転送が終わるまで持ちこたえればいい。チノたちをここへ置いていくつもりは、最初からなかった。
隔壁が内側へ歪み、次の瞬間には扉が左右へ弾け飛んだ。
壊れた扉の間に、白い殻に覆われた異形の人型が立っていた。肩越しに黒い機械フレームがのぞき、肩の上の武装が角度を変える。玄が照準を合わせようとした瞬間、その姿が視界から消えた。
引き金に掛けた指を動かすより早く、腹の辺りを冷たいものが通り抜けた。何が起きたのか分からないまま視界が傾き、床が迫ってくる。
手から離れた小銃が目の前を滑った。その先に、見慣れた軍用ブーツが二つ見える。
自分のものだ。膝も腰も、そこにあるはずなのに、ひどく遠い。
《玄?》
チノの声が聞こえた。玄は返事をしようとしたが、声は出なかった。





